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中国奮闘記(26)

ビッグサイトに降り立った僕は何をしていたか?

 
いわゆるアクセサリー交易会というやつに参加していた。当時上海で街を歩いていると、非常に安い値段でシルバーのアクセサリーが販売されていたし、中国では、こうしたアクセサリーが安く手に入るので、これを仕入れて日本に売ることができないかと考えたのだ。
 
とはいえ売り先も仕入れ先もまったくあても無く、相変わらず行き当たりばったりで何から手を付けて良いかわからない僕と家内はとりあえず交易会に行けばいいんじゃない?という思いつきで、インターネットで交易会の情報を調べ、東京で行われる宝石・アクセサリー展示・交易会に参加した。参加したといってもブースを構えたわけでもなく、ただみにいっただけなのだが。
 
会社を立ち上げて初めての出張、飛行機のチケットも安くはない、お金がないのでとりあえず実家に戻り、夜行バスで大阪を夜中に出発、明け方に東京に到着、東京滞在中は友人の家に寝泊まりした、会社を立ち上げたという話はこの時点で僕と家内以外誰も知らず、今回の出張で初めて泊めてくれた友人に、会社を立ち上げたこと、まだ何をするか決まっていないこと等を打ち明けたのだが、日本人特有の優しい対応で「へえ、会社立ち上げるなんてすごいねえ」などと言ってくれるものの、
 
「こいつ頭おかしくなったんじゃねえの?」
 
と心の中では思っているんじゃないかというような視線がはっきりいってつらかった。友人は多分そういうことは考えていないのだと思うけども(いや、思っているかもしれないけど)、迷走中の僕にとってはどんな優しい声や視線をなげかけられても、そのときはそんなコンプレックスを感じずにはいられなかった。
 
友人にお礼を言って朝早く出発し、でっかいスーツケースをかかえて東京のすさまじいラッシュの電車に乗り、他のお客さんの「ラッシュにスーツケースで入ってくんなよ」という批難を目をスルーしつつ、汗だくになりながら東京ビックサイトに到着、会場にはコインロッカーもないので、スーツケースを引っ張りながら会場に入った。知らない人がみたらスーツケースかかえて、その場で買う気満々のバイヤーにみえたかもしれない。
 
会場は已に人がいっぱいで、しかもものすごい数のブースが並んでおり、こういう交易会に初めて参加した僕はその迫力に圧倒されたが、急にうれしくなっていろいろなブースを見て回った。
 
宝石やアクセサリーの取引の経験があるわけでもない僕は、結局ブースを見て回るくらいしかすることがなく、ブースに陣取っている奇麗なお姉さんに「この製品はおいくらですか?」と聞いてみるくらいしかできなかったが、値段を聞くと確かに中国で売られているシルバーアクセサリーよりも相当に高かったことを覚えている。
 
そして何より、外国人が多くて聞こえてくるのはみな英語、上海に留学していたので、外国人はみなれていたつもりだったが、あんなに大勢の外国人(欧米人、中東系の人、インド人、そのほかアジアの人)をみたのは初めてで、にもかかわらず、僕はやたら中東系の人に声をかけられた。
 
親切な男性と少しのつたない会話でわかったことは、僕がウイグル人に似ているらしく、思わず声をかけたということらしい、その彼に「会社を立ち上げて、商売をやろうと思っているんだ」という話をすると、
 
へえ、そいつはすばらしいねえ、兄さんみたいに若いうちに始めたらきっとうまくいくよ
 
と爽やかな笑顔で励ましてくれた。
 
 
結局、交易会では商売のきっかけも作れず、ブースを見て回り、たくさん外国人を眺めただけで終わったのだけれども、この会場で出会った親切な中東の人からもらった励ましの言葉は、その後本気で、危機感をもって中国で商売をしようと決心したきっかけになっているのだから、このおじさんには今でも感謝していたりする。

中国奮闘記(25)

ちょっと本編からずれて寄り道します。

 
ほぼ成り行きで、食べていくために、しかも奥さんに尻をたたかれてスタートした会社とはいえ、始まってからは精力の大部分を会社に注ぎ込んだし、最初の3年くらいは、平均睡眠時間は2-3時間くらいだった覚えがある。
 
おそらく、お勤めしていたらこんな生活は絶対にありえないと思うけれども、不思議なことに自分の会社だと、これが意外に苦にならないというより、やらざるを得ないし、気がついたら夜中の3時ということもざらだった。
 
後に書くことになるが、会社を立ち上げてまったく仕事が来ない時期があっただけに、仕事に来るようになってからは、仕事が来ること自体がとてもうれしくて、来る仕事を全部受けてそれに没頭していたら、結果的にそのようなことになってしまった。
 
尻をたたいた手前、家内もそれにつきあってくれたけれども、今思えば相当無茶であり、彼女のお肌に相当ダメージを蓄積したのではないかという罪悪感もあり、彼女がかなりの値段のスキンケアクリームを購入しても、そこは何も言わないようにしている。
 
そんなことがあったものだから、何とかご飯を食べていけるようになった今でも、どんなに小さな仕事であっても受けるようにしている(会社の業務内容に含まれる仕事に限ります)、有能な副総経理からは”社長、それではいけませんよ”と常に言われてしまうのだけれども、いつか”いきりなり仕事がなくなって収入がまたゼロになるんじゃないか?”という何かに追われているようなプレッシャーは消えることはないし、自分で会社を立ち上げて必死に軌道に乗せた人は多かれ少なかれそんな心持ちがあるではないかと思う。
 
10年間会社をやってきて、スタートしたころと今ではやってることもまったく違っているけれど、紆余曲折と寄り道を繰り返して現在に至って取り組んでいる仕事は、結果的には大学生のころに将来やりたいなあと漠然と思っていたことに近いことを考えると、やっぱり好きなことや興味があることを仕事にするのが最終的にはうまくいきやすいのかなとも思う。
 
そういう意味で、若い人が「自分の好きなこと、興味のある仕事をしたい!」という言葉は一見青臭い理想論とか会社を知らない我が儘と思えるかもしれないけれど、究極的な意味では合っていると個人的には思ったりする。

中国奮闘記(24)

 前回の話:給料がありえないぐらい安くなってしまい、奥さんに背中を押されてほぼ仕方無くという形で会社を立ち上げたものの、絶対うまくいくと考えていた貿易仲介は予想通り失敗した。

 
失敗した理由はいくつかあるが、ざっと今思い返すと以下のようなことになる。
 
1. 貿易の”ぼ”の字もわからない状態なので、何から手を付けて良いかわからず、ど  うにも身動きが取れない。
 
2.現在のように気軽にEmailという時代ではなく、そういった組織で働いた経験も無い
  ので、つてもコネもあてもない状態で電話もかけようがない。
 
3.商売をなめていた
 
 
普通、会社で何年か働いてノウハウを貯め、人的なネットワーク等を構築して起業に至る人が多い中で、志高く起業した人が聞いたら怒るような理由で会社を作った僕は当然ながらそうしたノウハウやネットワークがあるわけもなく、全てが手探りであり、しかもその手探りでさわっている場所が合っているのかどうかすら確認しようがない状態だったといえる。
 
加えて、今のように気軽にメールとかSNS等でつながりを作ることができる時代ではなく、もっぱら連絡といえば電話やファックスがメインで、しかも国際電話(260円/分)になってしまうことを考えると、リストを手に入れて上から順番に営業電話なんてこともできそうになかった。
 
そして、多分この3番目の理由が一番大きかったのではないかと思う。思いつきでやる商売がうまくいくはずもない。若いということは良い方向に作用することもあるが、このときは悪い方に作用してしまい、大した考えもないまま漠然と貿易だ!と思っていただけだったので、結局は失敗した。そして生来の保留癖という悪癖がここでも顔を覗かしてしまい、どこか本気で、それこそ死ぬ気でやっていなかったというところはある。
 
 
最初に考えついた貿易は、そいういう意味では失敗というレベルにも達していない、スタートすらしていない状態で頓挫してしてしまったわけだが、なおもどこか危機感がない僕に家内はさすがに切れて、
 
「あんた、もうちょっと本気で考えなさいよ、会社作ったら終わりじゃないのよ、物を売ってお金を貰って儲けないと意味ないでしょう。能力あるわけじゃないんだから、いっそのこと日本へ行って日本人が欲しがりそうなものを研究してくるとかアクション起こしなさいよ、部屋にこもってPCみてても仕事は来ないのよ!」
 
と反論の余地が無い叱咤激励の言葉を僕に浴びせかけた。いつも思うが、うちの家内は怒るとかなり怖いが、解決策や打開策を怒鳴るので、それはそれで良き軍師ではある。
 
 
それから一週間後、なぜか僕は東京ビッグサイトにいた。

中国奮闘記(23)

奥さんから強引に説得されて、無職でヒモから会社社長になった僕は、二人で会社を作ると決心した翌日さっそく行動を開始した。

 
さしあたって、奥さんが親戚で旅行会社をやっているおじさんに会社を作るにはどうしたらいいかを電話で質問した。おじさんも「何をするかは作ってから考える!」という奥さんのものすごいポジティブ思考にちょっとびっくりしていたが、親切にいろいろと教えてくれた。
 
何でも、オフィスビルなんかにいくと、「~経済城」とか「~経済区」というような地方都市や上海市の郊外の区なんかが出張事務所を開いていて、そこに申し込めば簡単に会社を開くことができるらしい。
 
地方都市や郊外区にとっては会社をたくさん登記してもらうことによって税金をたくさんおさめてもらえるというメリットがあるので、登記してくれた会社には3年間無税等、いろいろな優遇や便宜をはかってくれる。更に毎月税金を納める場合も、この出張事務所へ
行けば、財務関係の書類作り等も全て代行してくれる(毎月300元くらいの代行手数料がかかる)ので、会社を作るというのはことのほか簡単だった。
 
そのほか資本金を決定したり、業務範囲を登録したりと細々とした作業がたくさんあるのだが、基本的にはこの出張事務所の人が全部やってくれるので、難しいことはほとんどなかった。
 
いろいろ聞き回った結果、僕たちは上海市の郊外区にあたる青浦区というところの経済城
に会社を登記することにした。
 
会社を作るの簡単だった、さて問題は”何をするか?”だった。
 
勢いで会社を作ってしまっただけに二人ともノーアイデアで、今にして思えば当時の迷走ぶりは笑い話どころではないほどだ。一応二人で頭を捻った結果行き着いたのが貿易をやるということだったのだが、貿易と言っても輸出も輸入ある、食品も衣料も工業機械も何でもある、さらに正確に言うならポッと出の小さい会社である僕たちは貿易はできないのだ、国際貿易にはライセンスが必要でそのライセンスを持っている会社でなければ国際貿易の取引ができないの、僕たちはそういうライセンスを持っている会社を通じて取引をするしか方法がない、だから正確には僕たちが始めたのは「貿易仲介」だった。
 
当時はまだ中国の人件費は相当に安くて、日本のたくさんの会社が中国で何かを生産して日本に持ち込みたいと思っていた時期だった、僕たちはそういう日本の会社に連絡をして、中国で実際に製品を生産し、それを日本に送り届けるお手伝いをしようと僕たちは考えた。
 
今のようにBtoB仲介をしてくれるような便利なウェブサイトが無かったので、中国の会社と日本の会社がやりとりをして、ものを作り、実際に日本に運ぶというのは、間に日本語と中国語がわかる人が立たないとなかなかうまく行かなかった時代、僕たちはこれは絶対うまくいくと意気込んだのだが
 
結果から言うと最初の「貿易仲介業」は大失敗だった。
 
ちなみに、当時(2001年ころ)そろそろ中国の向上と海外の企業の委託生産のやりとりをネット上で解決してしまえという野心的なサイトが現れはじめたころだったが、それが「アリババ」だったのだから、馬雲さんの将来を見通す目はすごいものがある。

中国奮闘記(22)

話は戻って、前回日本語学校の給料が一ヶ月2000元から1500元に下がったところで決心したというところ。

 
結論から言うと僕は日本語学校を辞めた。
 
張さん(仮名)からは、「せめて次の先生が見つかるまで待って欲しい」と言われたが、これまでの張さんのやり口をみていると、どうせ引っ張るだけ引っ張って「まだ新しい先生がみつからないから待ってくれと」と僕を働かせるに違いなので、月末いっぱいで辞めた。
 
留学生として上海にやってきた僕は異国の地で無職になってしまった。
 
勢いで辞めてしまったものの、次の仕事がみつかっているわけでもなく、しかも外国だ。すさまじい後悔の念に襲われて、何度も張さんにもう一回電話して「やっぱり戻ります」と言おうかと迷った。
 
無職である、収入ゼロである、外国である。
 
1500元でも、ゼロ元の1500倍と考えたら雲泥の差だ(ゼロはいくつかけてもゼロだが、そのくらい差がある
というのを表現したかったのでお許しを)。
 
猛烈な焦りを感じた、正直なところ「このまま上海で大道芸人やって、全然人気なくて、そのまま餓死かな」等と大げさなことも考えた。人間追い込まれると思考があり得ない方向へいくこともあるというのはこのとき学んだ。
 
ところで、日本語学校を辞めろとすすめたのは家内だ。
 
「考えてみなさい、一日8時間、土日も授業があるから、一ヶ月で約28日。給料が月1500元だったら時給いくら?7元いかないでしょう、今上海で時給7元以下で働いてる日本人なんてあたなくらいよ、将来のためとかかっこつけてないで、現実をみなさい!」
 
と、うすうす気づいていたけれでも、考えることを避けてきた目の前の現実を彼女に真正面から指摘されたのがきっかけだった。
 
彼女は、多分に優柔不断なところがある僕のケツを本田圭佑の無回転FKばりに振り抜いてくれる、正直でストレート、飾り気のない性格が気に入って結婚した(結婚してもらった)。
 
今回もその助言に従って日本語学校を辞めた。
 
とはいえ、繰り返すが無職である。已に夫婦になっていた僕たちは、彼女が航空会社で働いていたときに購入したマンションに住んでいた。その当時は彼女も已に航空会社のCAの職を辞して留学した日本から戻ったばかりだったし、2人とも仕事がなく、彼女の貯金を切り崩して生活していた。
 
無職の上にヒモである。
 
通常、中国の人が結婚する場合、結婚するときに男が住む家を準備しておくのが普通だ。僕の場合、家が無いどころか彼女に養ってもらっている状態であり、これは中国の結婚観からすると論外だった。
 
親戚や彼女の友人、知人は彼女に「絶対新手の詐欺だ」とさんざん忠告していたに違いないが、そういうのを一切僕の耳に入れないようにしていた彼女はすごいと思うし、人間の器が相当に大きい。
 
いずれにせよ、そんな方々からのプレッシャー、物理的に無収入という状況を打開するためには仕事をしてお金を稼がなければいけない。でも、成長著しい上海といっても、たかだか日本語の先生をちょっとかじった程度の経験しかない日本人が簡単に仕事をみつけられるほど甘い街でもない。
 
優柔不断で保留癖がありながら、どこまでも楽観的なところがあるもののさすがに沈んでいた僕に家内はこう提案した。以下当時の会話。
 
家内「2人で会社をつくりましょう、あなた社長になりなさい!」
 
僕「は?」
 
家内「は?じゃないのよ、2人で会社つくるのよ、幸い私は少し貯金があるし、このお金で会社を興して、お金をかせぎましょう。」
 
僕「いや、会社ってそんな簡単に言うけど、何やるの?僕会社なんてやったことないよ。」
 
家内「私だって会社なんて作ったことないわよ、誰だって最初は初めてでしょう。何やるかなんて作って考えればいいのよ、大体あんた今だって無収入なんだから、何かやらないと永遠に収入ゼロよ。あなたは日本人だし、私は中国人だから2人でがんばれば絶対何かチャンスがあるはずよ。」
 
 
僕「それはそうかもしれないけど、社長なんて僕の性に合わないよ、そんないきなり経験もないのに・・・・・」
 
家内「ムキ-っ!、じれったいわね、このまま行ったら私の貯金は半年で無くなるわ、半年待ってたら本当に2人とも無職で一文無しよ、私は親戚や友人から詐欺に引っかかって大変な目にあったと笑われたり、慰められたりするのよ、あなたそれでもいいのっ?、それより今少しは余裕がある間に何かしないと、チャンスもなくなっち
ゃうのよ、あなたのは何の経験も無いけど、みた目は人がよさそうで、誠実そうにはみえるから、社長兼営業にむいてるわ。私は女性で中国人だから日本へいきなり行っても言葉も無理だし、話を聞いてもらうのも難しいし、でも一応10年社会人やっているから人間関係とか、相手の考えていることとか、何を話せばいいとか、そういうことはあなたにアドバイスできるし、2人でやればきっとうまくいくと思うの」。
 
僕「誠実そうにはみえるってところが失礼な感じだが、おおむね当たっているので、確かにそんな気もする。」
 
家内「そうでしょう、絶対うまくいくわ。さっそく明日から行動開始よ、すごいわ、私たちの会社よ、私社長夫人よ。」
 
僕「なんか希望が出てきたね、明日から準備にとりかかろう。ところで、中国で会社ってどうやったらつくれるのかなあ。」
 
家内「わかんないけど、どっかに申し込むところがあるでしょう、まずはそれを探しましょう。」
 
2001年9月、こんな切羽詰まった状況を打開すべく、上のような会話を経て、僕たちの会社は何の方向性も無く立ち上がり、僕は社長に、彼女は社長夫人になった。

中国奮闘記(21)

 彼女との日本語学校設立という話は、僕が已に張さん(仮名)と日本語学校を立ち上げていることと、現在のところ大連までいくつもりは無いというので立ち消えになったが、僕と彼女の付き合いは、その後も続くことになった。

 
しばらくお友達としてのお付き合いが続いたが、健全なグループ交際等も経て、最終的には正式に恋愛関係のお付き合いとなった。中国の女性との恋愛というのも初めてだったし、だからといって日本の女性との恋愛経験もそれほど豊富でなかった僕なので、日本人と中国人であったとしてもそれほどのギャップもなくつきあうことができた。
 
彼女が割とせっかちな性格なのに対して僕は生来から鈍感なのんびり屋であったので、たまに喧嘩したとしてもそれほど深刻なことになることは少なかった。喧嘩するときは彼女は中国語で僕は日本語になるのだが、当時はお互いに表面的な言葉しか理解できなかったこともあり、決定的に傷づけるようなことにならなかったのが、今にして思えば良かった気もするし、この関係は今も続いていたりする。
 
上海の女性は”きつい”というので有名だが、それも夏のスコールのようなもので、一瞬ものすごい勢いで降るが、しばらくするとぴたっと止むので、後を引くことは少ない。逆にあまりにすぱっと切り替わるので、僕が面食らうほどだった。
 
まだグループ交際だったころ、僕は初めて彼女のおうちに招待された、当時の僕にとって上海の生活圏というのは、日本語学校と自分の家付近しかなかったので、それ以外のエリアというのは未知の世界に近く、彼女のおうちというのもその未知のエリアに位置していたこともあり、一人で誤解してかなり怖い思いをした覚えがある。
 
彼女と彼女の友人(男性)と僕とでタクシーに乗り込んで、彼女の家に向かったのはよかったが、タクシーはどんどん僕がみたことがないエリアへ走っていった。しかも道路脇の街灯もあまりついていないうえに、対向車両も10分に2台くらいしかみることができない。
 
そのうち、暗闇の向こうから巨大なガスタンクがみえてきた。暗い通り、対向車両も少ない、ガスタンク、これは何か危険な臭いがする。そういえば彼女の友達という坊主頭の男性も怪しく見えてきた、これはやっぱり僕のパスポートや身柄が目的なんじゃないかと勝手に先走った僕は、引きつった笑顔で耐えていたが、かなりびびっていたのは確かだ。
 
それから15分ほど真っ暗な道をタクシーは走ったが、10月の涼しい時季なのに緊張のあまり大汗をかいていた僕は逆に彼女たちからみるとかなり怪しくみえたに違いない。そうこうするうちタクシーは何事もなく、彼女が住むマンション街に着いた、入り口にローソンがあり、その看板をみたときは何となく安心して体の力が抜ける感じがしたのを覚えている。
 
何のことはない、彼女の住むエリアは空港からあまり離れていないエリアで、CAさんである関係上その辺に住んでいたというだけのことだった。空港は一般的に郊外にあることが多いので、通ってきた道が寂しく感じただけらしい。
 
とはいえ、あまりよくわからない外国人が、夜タクシーに乗ってガスタンクのそばを通ったらなにがしら勘違いするだろうという話を後日彼女にしたところ、
 
予想通り、真夏の巨大スコールが降ったというのがこの話が落ちなのでした。

中国奮闘記(20)

その後も彼女からの連絡をのらりくらりと交わし続けた僕であったが、ある日彼女の友達の女性から電話がかかってきた。

 
その女性曰く「あなたは何か勘違いをしているかもしれない、彼女は別に悪い人ではないし、ぜひあなたとお友達になりたいと思っているだけなので、一度くらいは会ってあげてもらえないか」とのこと。
 
ことことに至って、今までの仕打ちがあまりに失礼なことに遅ればせながら気づいた僕は、平謝りで彼女と会うことを約束した。
 
約束の当日、これまでさんざん逃げたり断ったりしてきたこともあり、緊張でがちがちだった僕は、靴下の色が左右で違っているのを待ち合わせ場所で気づいたほどだが、時已に遅しで彼女がとうとうやってきた。
 
内心ははらわたが煮えくり返っていたかもしれないが彼女は笑顔で「こんにちは」と挨拶をした、その後は僕がこれまで上海で行ったことがないようなお洒落なカフェでお茶をしながらお互いの話をした。
 
そのとき彼女は僕に「いろいろと怖い思いをさせてしまってごめんなさい、外国に一人で住んでいたら確かにいろいろ考えてしまいますよね」と逆に気遣いの言葉をかけてくれた。
もともととても単純な人間の僕は、この言葉ですっかり打ち解けて、これまでの自分の中国での体験や経験、今日本語学校の先生をしていること等を下手くそな中国語で説明した。
 
彼女もCAをやめて日本へ留学したいと考えていること、いろいろなことを僕に話したが、もともと僕に連絡をしてきたのは、そっちのほうの意味ではなくて、相談事があったかららしい。彼女はそのとき友達と大連で日本語学校を立ち上げようとしたそうで、そのときに必要な日本語の先生を探していたらしい、それで日本語の先生をしている僕に白羽の矢が立ったのだ。
 
世間というのはとても狭いもので、彼女の代わりに僕に電話をかけてきたあの女性というが、僕が最初に就職していた日本語学校で僕の授業を受けていたらしく、下手くそな中国語で身振り手振りで日本語を教えるスタイルが面白いという話がその女性を通じて、彼女の耳にも入っていたらしい。
 
つまりCAさんからのお誘いというは、何のことはない給料を1500元しかくれない張さん(仮名)と同じ日本語学校設立の相談だったのである。日本語の先生を始めてからわずか1年程度の僕は、日本語学校設立のスカウトに二度もあったことになる。
 
こうして現在の奥さんとのつきあいは、日本語が縁で始まった。

中国奮闘記(19)

 彼女とは、飛行機の上で知り合ったというとドラマのようでかっこいいけど、それほどドラマチックな展開ではなかった。

 
その時僕は、たまたま実家に戻る大阪行きの飛行機に乗っていた。そこにこちらもたまたま彼女が客室乗務員として乗っていた。彼女は普段ファーストクラスかビジネスクラスを担当するのだが、その日は同僚が病気で欠員が出たので、エコノミークラスを担当していたらしい。
 
中国系の航空会社にありがちな、がんがんに冷房が効いている機内で凍えて遭難しそうになっていた僕は何人かの客室乗務員に「毛布をもらえませんか?」と一生懸命伝えていたのだが、これがまったく通じなかった。
 
英語はまったくできないし、下手くそな中国語では聴き取ってもらえず、最後にはイヤホンが出てくる始末、恥ずかしがり屋で内向的な僕はまったく必要ないイヤホンを片手に笑顔で「謝謝(ありがとう)」と答えるしかなかった。
 
そのとき、近づいてきて「何か欲しいですか?」と日本語で声をかけてきたのが彼女だった。サービス用語として「何か欲しいですか?」という日本語は多少問題があるかもしれないが、凍えて唇がやや紫色になりつつあった僕にとっては神の声であり、ようやく必要な毛布を手に入れた僕は彼女に何度もお礼を言った。
 
彼女は、日本語を勉強しており、将来日本に留学したいと思っていること等を僕に説明した、僕のほうも上海の日本語教室で教師をしていること、新しい日本学校を立ち上げるつもりでいること等を、50%くらいふくらまして話した。
 
すると彼女は、「私も日本語を勉強したいので、もし上海に戻ったら連絡をもらえませんか?」という予想だにしなかった答えを返してきた。後に聞いたところだと、特に深い意味はなく、純粋に日本語上達のために、日本人の友人が欲しかっただけらしいのだがそのときはお互いに電話番号を交換して、彼女は仕事に戻り、僕は再び大嫌いな飛行機の上で嫌な揺れを我慢しながら眠りについた。
 
CAさんに声をかけられた上に、また会ってもらえませんかんどという人生で一回あるかないかの展開に普通ならすっかり舞い上がってしまうかと思いきや、そのときの僕はまた無駄に冷静に「これは何か絶対に裏があるに違いない、こんな貧乏日本人にCAさんが近づいて来るなどありえない、ここには何か陰謀が感じられる」等と勝手に判断してしまい、その後上海に戻ってからも、彼女からの電話に出なかったり、お誘いを断ったり、約束の時間に現れなかったりという暴挙に出たのである。
 
結婚した今こんなことをしたら、間違いなく死刑であろうが、このどう考えても住む世界が違いすぎて、当時の僕には壮大などっきりにしか思えなかったのだ。

中国奮闘記(18)

 ちなみに、日本語学校で給料1,500元という当時の中国の人でもかなり底辺な部類に入る生活をしていた僕だったが、すごいことに已に結婚していた。

 
相手は大体想像がつくと思うが中国の女性だ、しかも一歳年上の姉さん女房だ。彼女はもともと航空会社に勤めていたCAだったのだが、日本留学のために職を辞していた。僕が中国に留学している間、彼女は日本に留学しているという遠距離恋愛は一応実を結んで結婚に至ったわけだが、彼女の周りでは当時相当の反対があったようだ。当時は僕の鈍感さと中国語能力の低さのなせるワザか、そうした空気に一切気づかず、面の皮の厚いのもいいところだったが。
 
彼女の家族、親戚、友人、知り合いは、彼女が僕と結婚することを決めたとき、頭がおかしくなったと思ったらしい、確かに日本人と言えば当時はそれなりに裕福でもあり、駐在員の生活ぶりも現地の中国の人とは天地の差があったわけだから、普通に考えたら日本人と結婚するといえば、ちょっとしたものだったはずだが、よりによって僕である。
 
二人がおつきあいしていたころから、僕は彼女に誘われてよく食事等に参加していたが、中国語能力も低い上に、言語能力に輪をかけてコミュニケーション能力が低かった僕は、食事会に参加しても一言も話さずに黙々とご飯を食べているだけで、かなり感じの悪い日本人に映っていたようだ。
 
本音を言えば、せっかくお呼ばれしたのだから、できるだけ会話に参加して、冗談の一つも披露したいと心から思っていたのだが、何せ会話のスピードが速いし、皆押しが強いので、言葉を差し挟むタイミングもわからない上、上海は上海語が普通なので、何が話されているのかもわからず、話題に入ることもできず、せいぜい「おいしいです」くらいしか言うことができなかった。
 
そうした国籍や性格の問題を抜きにしても、周りが納得も理解もできなかったのは、CAという華々しい仕事をしていた彼女が何故この貧乏日本人といっしょになることを決めたのかということだった。
 
”おまえは絶対に騙されている”と本気で彼女に忠告してくれる友人もいたそうだし、彼女のこれまでおつきあいしてきた男性と比較すると、明らかにワンランクどころか、3ランクくらい落ちる僕と結婚すると宣言した彼女をみれば、周りの人間は、彼女が壊れたと思っても至極当然の判断だろう。
 
逆に僕のほうは、彼女と結婚することを誰にも言っていなかったし、両親すら直前まで僕が結婚することを知らなかったわけだから、国際結婚にありがちないろいろな面倒はまったく存在しなかった。
 
はっきり言ってしまえば、社会経験、人間性、性格の良さ、経済力のどの点をとっても彼女は僕より優れた人だったわけだから、伝統的な結婚観に照らし合わせてみれば、ほぼ僕が彼女に嫁いだようなものだと思う。

中国奮闘記(17)

通勤時間往復6時間、給料2,000元はさすがに厳しいと感じた僕は、張さんにこの現状を正直に話してアルバイトを始めることの承諾を得た。当初は難色を示した張さんだったが、給料上げろと言われるよりは良いと思ったのか最後は一応僕のアルバイトを認めた。

 
といっても別に日本語教師とまったく違う仕事をしたわけではなく、アルバイトも日本語学校の仕事の延長線上にあるものだった。それは日本にある日本語学校に連絡して、中国の日本語学校で勉強している日本へ留学したいと考えている学生を紹介するというものだった。
 
当時、日本へ留学を希望する中国人が急激に増えていたが、それを効率良く仲介する組織や機関、サービスが今ほど充実していなかったので、中国側では受け皿になる日本の日本語学校がうまく見つけられず、日本の日本語学校は中国人学生をうまく見つけられないということが起こっていた。
 
このギャップをうまくうめる仲介業をやれば、仲介料をかせぐことができると考えた僕は、さっそく張さんの日本語学校設立を支援した教育企業グループの偉い人に頼んで、彼らの運営する正規ライセンスを持つ留学仲介サービス会社の社員として、留学斡旋のアルバイトを始めた。その教育企業グループでも、留学仲介は利幅の大きいビジネスとしてサービスを拡大したいと考えていたらしく、僕の中国の就業ビザもその企業から出ていたので、渡りに船だったようだ。
 
とはいえ、日本語教師同様にまったく経験のない僕がいきなりがんがん留学生を仲介できるわけもないので、さしあたっては日本にある日本語学校の住所と連絡先、更に中国の日本語学校や教育機関の連絡先を片っ端から調べると同時に、日本留学の現状を勉強することにした。
 
それでわかったことは、中国で日本留学の学生の供給源となっている主な地域が中国の東北地域で、上海や華東地区はどちからというと欧米留学希望者が多いこと、僕の考えた留学仲介サービスの会社や組織、機構は正規、非正規含めたものすごい数あること、留学を希望する学生はそうしたサービス窓口を利用するので、いきなり個人の仲介者に任せたりしないこと等だった。
 
勢いで始めたこの留学仲介のアルバイトは、僕が”もうかるかも妄想熱病症(後に慢性になる僕の持病)”に冒されていたこともあり、日中間の留学仲介のミスマッチというのはどうやら気のせいだったらしいと気づくのに約半年を要した。張さんの許可得て学校の電話を使って連絡した日本語学校は日中合わせて覚えているだけでも一日平均30校くらいはあったと思う。
 
親切に僕の下手くそな中国語を聞いてくれる中国の日本語学校や、日本に来てもらってぜひ話を聞きたいと言ってくれた日本の日本語学校もいくつかあったが、結局留学生を送り込むまで話しが進んだものは一件もなく、そうこうしているうちに授業への取り組みが以前よりまじめじゃないという理由で、張さんから給料を2,000元から1,500元に引き下げるという宣告を受けたとき、僕はようやく決心した。