中国奮闘記の最近のブログ記事

中国奮闘記(33)

 約1年弱鳴かず飛ばずだった僕たちの会社、貿易や飲食やいろいろ試してもうんともすんとも言わなかった素人二人の会社。

 
すっかり諦めかけていたところ、どうにかこうにか仕事が来るようになってきた。子供が生まれたから仕事が来るようになったというよりは、子供が生まれて必死さに磨きがかかったことと、中途半端に日本に戻るようなことができなくなったという覚悟が良い方向に向かったのだと思う。
 
なぜ仕事が来るようになったといえば、日本語の先生をしていたときに同僚だった人が別の会社で働いているときに翻訳者を探していたのが、そこで僕に話が回ってきたのだった。
 
当時は、まだまだ中国語をちゃんとした日本語に翻訳することができる日本人というのも少なかったし、翻訳という作業はPCとネット回線があれば始めることができるので、僕たちのように元手もツテもコネもない会社にとっては敷居が低い仕事だった。
 
もちろん、コンスタントに翻訳の仕事が入ってき始めると、翻訳が簡単に始められる仕事というのはまったく甘い考えで、相当に高度な知識や、幅広い語彙、両国の文化理解や、時事に対する洞察が必要となる作業だというのを身にしみて感じた。
 
それでも、今までまったく仕事が無かったのが面白いようにどんどん依頼が来るものだから、三日で睡眠時間が2時間なんてことがあったとしても、仕事が来ること自体がうれしくて、どんな依頼が来てもできるだけ断らないで受けるようにした。
 
今思えば、知り合いとはいえこんな素性もよくわからないような会社に翻訳の仕事を出すお客さんも大英断だと思うし、当時はまだまだ中国ビジネスも緩い部分が多かったのも確かだ。
 
ひたすら翻訳を続けることで、ようやく収入も得ることができるようになった、月収も最終的に日本語の先生をしていたころから8倍に跳ね上がった!
 
と言っても日本語の先生でもらっていた給料が1500元くらいだったので8倍でも10000元ちょっとにしかならないのだけども、何はともあれ会社としてお仕事を受け、売り上げが立つようになり、ようやく人様に「会社をやっています」と言えるようになったのはとてもうれしかった。
 
その後、運良くお仕事が増えて行く中で、最終的に翻訳業務はやめてしまった(基本的にミスは許されない割には報酬が低く、優秀な翻訳者を多数抱えるのは難しいので生産性が上がらない)のだが、翻訳業務をやっていく中で会社の運転資金を貯めることができるようになり、知り合うことができたお客さんや知人、友人とのつながりができてその後更に新しい事業を生むきっかけになったのは確かだ。
 
今はもう翻訳を業務としては請け負っていないが、初心を忘れないように今でも時折翻訳の作業をするようにしている。
 
中国奮闘記 第一部了

中国奮闘記(32)

思いつくままいろいろな事を試してものの、あまりにも素人の僕たち豊富は何の成果もあげることができず、会社設立から早くも8ヶ月あまりが過ぎた。

 
会社社長とは名ばかり、実態は無職で、蓄え(ほとんど家内の蓄えですが)も日に日に減少していくため、さすがに二人とも焦りの色が濃くなってきた。
 
当時は、これはもう日本へ戻って仕事を探すしかないというところまで追い込まれていた。
ただ、仕事を探すといっても当時も今同様に就職氷河期で、かつ世の中も今ほど「中国だ中国だ」と盛り上がっておらず、日本へ戻っても仕事がみつかるかどうか不安だったこともあって、先送りの悪癖がまた顔を出し始めた僕は、決断を渋っていた。
 
後から聞いたところでは、家内も最悪会社がうまく行かなければ二人で日本へ行って仕事を探せばいいと思っていたらしく、8ヶ月間まったく仕事が無かったときも口ではいろいろ言いながらも、会社を作ったのは失敗だったとは一言も言わなかったし、決断を渋る僕を急かすようなこともしなかった。
 
こういう場合、女性のほうが割と腹が据わっているもので、外国人が中国ビジネスをやる場合に必須の信頼できる中国人パートナーは、僕の場合にはすぐ隣にいたのだから、とても運が良かったし、どちからというと内向的な僕とすばらしく外向的な彼女とは役割分担がしやすいというメリットもあった。
 
とはいえ、ほぼニートである。開店休業のストレスは相当なものがあったし、家内は何も言わないけれど、彼女の親戚、友人からの「日本に戻って仕事さがしたほうがいいんじゃないの」プレッシャーはかなりのレベルに達していたため、鈍感な僕もさすがに耐えるのがつらくなってきた。
 
これはもうやはり日本に戻って仕事をさがすしかないとこっそり買っておいた就職情報誌に手をかけ始めたころ、更に人生の大きな大事件が起こった。
 
もったいぶらずに結論を言えば
 
子供が生まれた!
 
のである。
 
そして、子供が生まれたころから僕たちの会社の風向きが急激に変わり始めた。

中国奮闘記(31)

友人のアドバイスもあり、ハンバーガーということになった僕たちは、家の近くにあるハンバーガーショップにさっそく試食にでかけることにした。

 
当時住んでいたマンションの敷地内にあるそのハンバーガーショップは、その名もバーガーキッズで、某大手ハンバーガーショップバーガー王(王を英語にしてみてください)と看板やロゴもそっくりのお店だった。
 
住宅エリアにあることもあり、お客さんは大半が学校帰りの子供で、そのほか孫を連れたおじいちゃんやおばあちゃんが多く、ハンバーガーショップでありながら駄菓子屋的なたまり場になっていて、ハンバーガー以外にもいろいろなお菓子などを売っていた。
 
何はともあれハンバーガーということで、ハンバーガーを二つ、チーズバーガーを二つ、チキンバーガーを二つ購入した。中国の人は特に鶏肉を好んで食するので、バーガーキッズでもチキンバーガーが非常によく売れており、このあたり中国ではKFCがマクドナルドと互角以上の戦いを繰り広げているのと共通している。
 
あまりに店内やメニューをまじまじと眺めていたところ店員さんが怪しみ始めたので、お家に帰って試食することにした。
 
さっそくハンバーガーを僕と家内と上海に遊びに来ていた友人で食べてみた。一口食べたところで家内が
 
「どう?いけそう?」
 
といきなりトップスピードな質問を投げてきたので困った僕は思わず
 
「んんん、ハンバーガーだねえ」
 
とこれまた間の抜けた答えを言ってしまったものだから、最近の僕の頼り無さぶりにおかんむりの家内の怒りが爆発
 
「あんたねえ真面目にやってんの?!、ハンバーガー食べた感想がハンバーガーだねえってそんなの小学生でも言えるでしょう!生活かかってんのよ、もっと真剣にやりなさいよ」
 
と怒鳴られる始末、見かねた友人が
 
「まあ、ハンバーガーはパテをバンズで挟むだけだから、あまり美味しい、美味しくないとかそういうのはわかんないよね、今日のあのお店は完全に立地の勝利だね。」
 
と助け船を出してくれた。
 
ちなみに、友人が上海に来ている間中、僕はほぼ毎日家内に怒られていたので、それがトラウマになってその後の友人の結婚がかなり遅くなった可能性もあり、多少心苦しかったりする。
 
話を戻すと、結局その後ハンバーガーショップも実現することはなかった。親戚が実際にレストランを開店したものの、全く流行らず3ヶ月で閉店した苦労話を聞かされた家内のやる気が失せたのと、僕個人としても飲食にあまり興味が無かったこともあり、今思えばクレープもハンバーガーもせっぱつまった二人の思いつきに過ぎなかった。
 
日本語学校、留学仲介、貿易、宝石・アクセサリー、クレープ、ハンバーガーと立て続けに失敗した僕たちはこの時点で会社設立から5ヶ月ほど経っていたのだが、そろそろ起業当時の熱も冷めてきて、始めたばかりで仕事が無いのも仕方がないという言い訳も効果がなくなってきたこともあり、5ヶ月間収入ゼロという事態が、ほとんど蓄えの無い二人の上に現実としてに重くのしかかっていた。
 
 
そんなときに、折良く新たな出会いがあるのがテレビドラマの定番設定だが、ドラマではない二人の会社は、その後もしばらく仕事がないまま、試行錯誤を繰り返すことになる。

中国奮闘記(30)

上海の繁華街である徐家匯にあるクレープ屋さんで試食し、あまりの美味しくなさとお客さんの少なさに、「これなら勝てる!」と明らかに間違った方向の判断を下した僕は、その後クレープ屋さん開店のための調査を開始した。

 
主な疑問点は三つ
 
1.飲食をやるためには工商局の営業許可だけではなくて、衛生局の許可もいるらしい、こ
 れはどうすればいいのか
 
2.機材等をどこから持ってくるのか
 
3.そもそもクレープをどうやってつくるのか
 
調べた結果は、
 
 
すみません、結局全部わかりませんでした。
 
当時は今ほどインターネットも発達しておらず、そもそもどこから調べていいかもわかりませんし、ツテがあるわけでもありません。衛生局の許可がいるということはわかっても、何をどうすればいいか、素人の家内と僕ではわかるわけもありませんでした。
 
更に、クレープを作るための機材ですが、例の徐家匯のお店のお姉ちゃんは、社長がシンガポールから持ってきたようなことを言っていましたが、上海中の調理器具街を探し回ってもクレープを作る機械らしいものは見つけることができませんでした。
 
そして、最大の難関である、「誰がクレープを作るのか?」については、家内曰く「あなたがどかで修業すればいい」とのことでしたが、二人でやるからには「二人とも作れないとお店やっていけないでしょう」と主張する僕と意見が対立して喧嘩になる始末。
 
 
クレープ屋さんはいきなり暗礁に乗り上げました、というより出航すらしていません、肝心の船(イカダ?)が進水、就航できない状態です。
 
 
僕たち夫婦によるこの一部始終は、ちょうどそのとき上海に遊びに来ていた大学時代の同級生が目撃しているのですが、彼はこのやりとりをみていて「こいつ(僕のこと)は、中国に行って頭がおかしくなったんじゃないか?」と思ったようです。
 
みかねた友人は、関西人ということで粉物にもうるさく、大学時代は飲食でアルバイトをしていたこともあり、あまりに素人な僕たちを見かねて「クレープは、粉物で意外に難しいし、テクニックもいる、競争も激しいから最初からやるには難しいじゃないか、もしやるなら、ハンバーガーとかのほうがまだ芽があるかもしれないよ、中国の人だってクレープはみたことなくても、ハンバーガーならみたことあるはずだし、バンズとパテだけだから調理も楽だし」とアドバイスをくれました。
 
このアドバイスをきいた家内は「そうね、それはそうだわ、あんた、友人のMさんは見る目があるじゃないの、なんであんたはそんなに頼りないの!」と自分のことは棚に上げて僕をののしる始末。頼りないことは認めざるを得ない僕は、釈然としない気持ちを抑え込んで、今度は家の近くのハンバーガーショップに家内と友人といっしょに試食へ行くことにしました。
 
ここまでで已に、かつてのサッカー日本代表監督や某国総理大臣もかなわないほどのぶれまくりで、すさまじしい視界不良ですが、今だから言えることは、海外に来てとりあえず敷居が低そうな飲食をやろうというのは絶対にやってはいけないということでした。
 
貧すれば鈍するとはよく言ったものですが、僕たち夫婦の迷走はまだまだ続くことになります。

中国奮闘記(29)

 しばらく時間が空いてしまいましたが、貿易失敗、宝石失敗の末、我々が行き着いたのは

 
クレープ
 
でした。
 
安易だなあと思うはちょっとお待ちください。我々なりに考えた結果なのです。
 
中国の人は朝ご飯に粉モノをよく食べます。代表的なところでは、肉まん、シューマイ(日本のシューマイは中の具は肉などが多いですが、中国のシューマイは餅米が入っていることが多い)、そしてクレープのような餅(Bing)等があります。これに豆乳がセットというのは中国の人の一般的な朝ご飯です。
 
特に餅は、薄い皮に、卵やザーサイ、豆板醤をトッピングしたポピュラーな食べ物です、朝の出勤時は、オフィス街から普通の下町、交差点にいたるまでいろいろなところで売られています。
 
それくらい中国で定着している食べ物ですから、薄い皮の上にいろいろな具材をトッピングするクレープは絶対に売れるだろうとふんだわけです。
 
今考えるととても安易ですね・・・・・・
 
当時、上海でもクレープを売っているところは、ほとんどありませんでしたが、一カ所上海の繁華街の徐家匯(渋谷みたいなイメージ)にお店があったので、さっそく食べに行ってみました。
 
焦る気持ちでお店に到着、これから商売敵になるかもしれないお店ですから、警戒されないようにすました顔で入店です、クレープというと屋台の前にお客さんが列をなしているイメージですが、僕たちが訪れたときはお客さんがいませんでした。
 
手持ちぶさたにしている女性の店員さんに、「クレープください」と注文です。以下その会話。
 
 
僕:クレープください

店員:いらっしゃいませ、トッピングはどうしますか?

僕:じゃあ、このフルーツ何とかというやつもらえますか?

店員:あ、すみません今日果物入荷してないんです

僕:えっ?じゃあ何ができますか?

店員:そうですね、このチョコレート何とか(名前忘れました)はできますよ

僕:じゃあ、それをもらえますか?

店員:はい、わかりました、ちょっと待ってくださいね

僕:ちょ、ちょっと待って皮は作り置きですか?

店員:はい、焼ける人が今日はお休みですから

僕:でも、あたたかくないと美味しくないですよね

店員:大丈夫です、電子レンジであたためますから

僕:レンジ・・・・・
 
 
というような攻防を経て、手に入れたチョコレートクレープをさっそく食してみたのですが、感想としては
 
美味しくなかったです
 
やはり作り置きの皮が乾燥して、クレープというより天日に干した湯葉みたいになってしまっています、更に焼きたてでないところにチョコクリームを塗りつけるものですから、チョコレートが溶けずに固まりで入っています(お家で食パンに冷蔵庫から取り出したばかりのチョコクリームを塗った感じ)。
 
店員さん、苦い顔して食べている僕に向かって「美味しいですか?」などとこのときは満面の笑顔できいてきますので、仕方無く
 
 
「おいしいです」
 
と答えておきました。
 
その後、明らかに暇そうな店員のお姉さんと雑談して、いろいろなことを聞き出しました。商売敵になるとは知らず、とても親切です。それでわかったのは、
 
・機材などはシンガポールから持ってきた
・具材、食材などは全て上海で手に入る
・クレープ自体は、餅に近いので許可は下りやすい
・あんまり売れない
 
ということでした。
 
最後の”あんまり売れない”というのは致命的だと思うのですが。
 
その時の僕は、飲食の経験などまったく無いにも関わらず、ちゃんとしたクレープを作ればきっと売れるだろうなどと甘い考えをもっていたのです。
 
 
そんな折、大学生時代の友人が上海に来ることになりました。

中国奮闘記(28)

展示会に参加し、友人にもいろいろ頼んだアクセサリー売りは、経験の無さとモチベーション戦略のまずさであえなく挫折した。

 
戦略会議という名の説教会に臨み、アクセサリー売りがうまく行かなかった原因や、どうすればうまくいくか、何をやればいいのか、この頃は本当に夫婦で顔を合わせている間ずっとその話ばかりしていた覚えがある。
 
 
そして、ついに奥さんの口から出た「わかった!何でうまくいかないのか」の言葉。
 
以下会話、
 
奥「わかったは、何でうまくいかないのか」
 
僕「えっ!、本当?」
 
奥「そうよ絶対これが原因よ」
 
僕「おおおおおお、教えて、早く教えてください」
 
奥「つまり・・・・・」
 
僕「つまり?」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
奥「気合いが足りないのよ!!
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
僕「おおお、なるほど確かにそうですね」
 
 
 
 
 
 
 
二人とも商売がうまくいかなくて頭がおかしくなったわけではありません。つまりそういうことなのです、そもそも二人で商売を始めようとした段階で「社長になる、自分たちの会社」というところに甘えや格好付けがあったことは確かです。
 
会社を立ち上げたときに陥る「つくって満足症候群」に私たちもかかってしまっていたのです、これは恐ろしい病気で、会社を立ち上げたときに興奮や高揚感、社長になったことへの優越感、そして「まだ会社を立ち上げたばかりなのだから、そんなにすぐに仕事は来ないだろう」という逃げ場のある状況は、実はものすごく危険です。
 
下手をするとこのままずるずると仕事も無いまま迷走し続けることになります。
 
そしてその泥沼から抜け出す唯一の方法は。
 
 
気合い

必死さ

絶対に成功させるという意気込み
 
 
なのです。
 
 
それは二人にとっては子供の存在がそうでもありました。「この子のためにがんばらないと!」というのはものすごいモチベーションになるものですし、気合いを入れて、必死に、絶対に成功するぞという気になるものです。
 
 
というわけで、起業した直後の浮ついた気持ちを何とか抜け出して、ようやく本気モードのスイッチが入った僕たち二人が次に目を付けたのは
 
 
クレープ
 
 
 
 
また、甘い香りと同時にネタになりそうな香りがぷんぷんしてきますが、このお話はまた次週にしたいと思います。

中国奮闘記(27)

展示会に参加したものの、特になんの成果もなく終わった僕は、とぼとぼと実家の大阪に戻り、結果を家内に報告した。また怒られるかと思ったが家内の反応は意外にさっぱりしたもので

 
「大体、そんな展示会行ってもツテとかルートがある人しか商売ならないだろうし、英語わかんないし、ダイヤとかルビーとかそんなの私たちに売り買いできるわけないから、仕方無いわね。」
 
じゃあ、展示会に行ってみよう!と盛り上がったあれは何だったのか・・・
 
で、東京の展示会は空振りだったので、大阪で家内の留学時代の友達という人たちに会うことにした。日本人、中国人、リヒテンシュタイン人、韓国人と色とりどりの人たちが総勢6名、皆シルバーアクセサリー等を販売するのに興味があるという人たちだ。
 
打ち合わせ場所は、なぜか餃子の王将の奥座敷。なにやら下手くそな中国語やら英語、不思議なイントネーションの日本語が飛び交う様子に、さすがに店員さんもちょっとひいていたが、気にせず僕は中国から安いシルバーアクセサリーを仕入れて日本に送るから、みんなに売って欲しいという話をした。
 
皆、やる気満々で聞いてくれたので、「これはいけるんじゃないか?」等と密かに期待し、「すごい売れたらどうしよう?」という捕らぬ狸の何とかのような会話で盛り上がりつつ、王将の餃子をかなり平らげた。上機嫌で分かれた僕はさっそく家に戻って家内に報告、これはなかり期待できそうだと説明した。
 
が、結果としてはこの方法もうまく行かなかった。
 
そもそもこの6人も僕同様に素人なので、ツテやルートがあるわけではないし、普段は自分の仕事があるので、全ての時間を使って我々の商品を一生懸命は売ってくれるというわけではない、自分が出資している会社でもないので、売れなかったとしても彼らに被害は無いし、打ち合わせの時と直後は盛り上がっていても、時間が経つとそうした熱も急に冷めてしまって、アクセサリーを売るなんていう面倒くさいことは脇にどけてしまうのが普通だ。
 
結局このことがあってから、どんなビジネスや商売をやるにしても僕は基本的に「売れた分だけにあなたにも取り分がありますよ」というモチベーションだけで参加者を募ることには懐疑的になった。「売れた分だけ取り分がある」というのは逆を言えば「売れなければ取り分はない」ということだから、それはモチベーションにはなり得ないのだと思う。
 
これは日本だろうが中国だろうが同じことであって、その後中国で商売をしていく中で同じような仕組みを試したことがあったが、ことごとく失敗している。
 
商売を始めたころは資金も無いし、ツテやルートもないので一見合理的でリスクも無いようにみえるこの「売れた分だけ取り分がある」という方法を使いたくなるものだけども、、実はスタートした直後の会社だとこのやり方はほぼ100%失敗する。
 
よっぽど商品が魅力的なら別だが、人に頼ってものを売る(代理者を使う)ことができるようになるのは、実は商品が売れ始めてからなのだということに、僕はそのとき遅まきながら気づいた。
 
やはり、自分の会社の商品やサービスを売ろうと思ったら、最初はその会社に命をかけている人(具体的にはお金をつぎ込んでいる人)でないとうまく行くはずがないのだ。

中国奮闘記(26)

ビッグサイトに降り立った僕は何をしていたか?

 
いわゆるアクセサリー交易会というやつに参加していた。当時上海で街を歩いていると、非常に安い値段でシルバーのアクセサリーが販売されていたし、中国では、こうしたアクセサリーが安く手に入るので、これを仕入れて日本に売ることができないかと考えたのだ。
 
とはいえ売り先も仕入れ先もまったくあても無く、相変わらず行き当たりばったりで何から手を付けて良いかわからない僕と家内はとりあえず交易会に行けばいいんじゃない?という思いつきで、インターネットで交易会の情報を調べ、東京で行われる宝石・アクセサリー展示・交易会に参加した。参加したといってもブースを構えたわけでもなく、ただみにいっただけなのだが。
 
会社を立ち上げて初めての出張、飛行機のチケットも安くはない、お金がないのでとりあえず実家に戻り、夜行バスで大阪を夜中に出発、明け方に東京に到着、東京滞在中は友人の家に寝泊まりした、会社を立ち上げたという話はこの時点で僕と家内以外誰も知らず、今回の出張で初めて泊めてくれた友人に、会社を立ち上げたこと、まだ何をするか決まっていないこと等を打ち明けたのだが、日本人特有の優しい対応で「へえ、会社立ち上げるなんてすごいねえ」などと言ってくれるものの、
 
「こいつ頭おかしくなったんじゃねえの?」
 
と心の中では思っているんじゃないかというような視線がはっきりいってつらかった。友人は多分そういうことは考えていないのだと思うけども(いや、思っているかもしれないけど)、迷走中の僕にとってはどんな優しい声や視線をなげかけられても、そのときはそんなコンプレックスを感じずにはいられなかった。
 
友人にお礼を言って朝早く出発し、でっかいスーツケースをかかえて東京のすさまじいラッシュの電車に乗り、他のお客さんの「ラッシュにスーツケースで入ってくんなよ」という批難を目をスルーしつつ、汗だくになりながら東京ビックサイトに到着、会場にはコインロッカーもないので、スーツケースを引っ張りながら会場に入った。知らない人がみたらスーツケースかかえて、その場で買う気満々のバイヤーにみえたかもしれない。
 
会場は已に人がいっぱいで、しかもものすごい数のブースが並んでおり、こういう交易会に初めて参加した僕はその迫力に圧倒されたが、急にうれしくなっていろいろなブースを見て回った。
 
宝石やアクセサリーの取引の経験があるわけでもない僕は、結局ブースを見て回るくらいしかすることがなく、ブースに陣取っている奇麗なお姉さんに「この製品はおいくらですか?」と聞いてみるくらいしかできなかったが、値段を聞くと確かに中国で売られているシルバーアクセサリーよりも相当に高かったことを覚えている。
 
そして何より、外国人が多くて聞こえてくるのはみな英語、上海に留学していたので、外国人はみなれていたつもりだったが、あんなに大勢の外国人(欧米人、中東系の人、インド人、そのほかアジアの人)をみたのは初めてで、にもかかわらず、僕はやたら中東系の人に声をかけられた。
 
親切な男性と少しのつたない会話でわかったことは、僕がウイグル人に似ているらしく、思わず声をかけたということらしい、その彼に「会社を立ち上げて、商売をやろうと思っているんだ」という話をすると、
 
へえ、そいつはすばらしいねえ、兄さんみたいに若いうちに始めたらきっとうまくいくよ
 
と爽やかな笑顔で励ましてくれた。
 
 
結局、交易会では商売のきっかけも作れず、ブースを見て回り、たくさん外国人を眺めただけで終わったのだけれども、この会場で出会った親切な中東の人からもらった励ましの言葉は、その後本気で、危機感をもって中国で商売をしようと決心したきっかけになっているのだから、このおじさんには今でも感謝していたりする。

中国奮闘記(25)

ちょっと本編からずれて寄り道します。

 
ほぼ成り行きで、食べていくために、しかも奥さんに尻をたたかれてスタートした会社とはいえ、始まってからは精力の大部分を会社に注ぎ込んだし、最初の3年くらいは、平均睡眠時間は2-3時間くらいだった覚えがある。
 
おそらく、お勤めしていたらこんな生活は絶対にありえないと思うけれども、不思議なことに自分の会社だと、これが意外に苦にならないというより、やらざるを得ないし、気がついたら夜中の3時ということもざらだった。
 
後に書くことになるが、会社を立ち上げてまったく仕事が来ない時期があっただけに、仕事に来るようになってからは、仕事が来ること自体がとてもうれしくて、来る仕事を全部受けてそれに没頭していたら、結果的にそのようなことになってしまった。
 
尻をたたいた手前、家内もそれにつきあってくれたけれども、今思えば相当無茶であり、彼女のお肌に相当ダメージを蓄積したのではないかという罪悪感もあり、彼女がかなりの値段のスキンケアクリームを購入しても、そこは何も言わないようにしている。
 
そんなことがあったものだから、何とかご飯を食べていけるようになった今でも、どんなに小さな仕事であっても受けるようにしている(会社の業務内容に含まれる仕事に限ります)、有能な副総経理からは”社長、それではいけませんよ”と常に言われてしまうのだけれども、いつか”いきりなり仕事がなくなって収入がまたゼロになるんじゃないか?”という何かに追われているようなプレッシャーは消えることはないし、自分で会社を立ち上げて必死に軌道に乗せた人は多かれ少なかれそんな心持ちがあるではないかと思う。
 
10年間会社をやってきて、スタートしたころと今ではやってることもまったく違っているけれど、紆余曲折と寄り道を繰り返して現在に至って取り組んでいる仕事は、結果的には大学生のころに将来やりたいなあと漠然と思っていたことに近いことを考えると、やっぱり好きなことや興味があることを仕事にするのが最終的にはうまくいきやすいのかなとも思う。
 
そういう意味で、若い人が「自分の好きなこと、興味のある仕事をしたい!」という言葉は一見青臭い理想論とか会社を知らない我が儘と思えるかもしれないけれど、究極的な意味では合っていると個人的には思ったりする。

中国奮闘記(24)

 前回の話:給料がありえないぐらい安くなってしまい、奥さんに背中を押されてほぼ仕方無くという形で会社を立ち上げたものの、絶対うまくいくと考えていた貿易仲介は予想通り失敗した。

 
失敗した理由はいくつかあるが、ざっと今思い返すと以下のようなことになる。
 
1. 貿易の”ぼ”の字もわからない状態なので、何から手を付けて良いかわからず、ど  うにも身動きが取れない。
 
2.現在のように気軽にEmailという時代ではなく、そういった組織で働いた経験も無い
  ので、つてもコネもあてもない状態で電話もかけようがない。
 
3.商売をなめていた
 
 
普通、会社で何年か働いてノウハウを貯め、人的なネットワーク等を構築して起業に至る人が多い中で、志高く起業した人が聞いたら怒るような理由で会社を作った僕は当然ながらそうしたノウハウやネットワークがあるわけもなく、全てが手探りであり、しかもその手探りでさわっている場所が合っているのかどうかすら確認しようがない状態だったといえる。
 
加えて、今のように気軽にメールとかSNS等でつながりを作ることができる時代ではなく、もっぱら連絡といえば電話やファックスがメインで、しかも国際電話(260円/分)になってしまうことを考えると、リストを手に入れて上から順番に営業電話なんてこともできそうになかった。
 
そして、多分この3番目の理由が一番大きかったのではないかと思う。思いつきでやる商売がうまくいくはずもない。若いということは良い方向に作用することもあるが、このときは悪い方に作用してしまい、大した考えもないまま漠然と貿易だ!と思っていただけだったので、結局は失敗した。そして生来の保留癖という悪癖がここでも顔を覗かしてしまい、どこか本気で、それこそ死ぬ気でやっていなかったというところはある。
 
 
最初に考えついた貿易は、そいういう意味では失敗というレベルにも達していない、スタートすらしていない状態で頓挫してしてしまったわけだが、なおもどこか危機感がない僕に家内はさすがに切れて、
 
「あんた、もうちょっと本気で考えなさいよ、会社作ったら終わりじゃないのよ、物を売ってお金を貰って儲けないと意味ないでしょう。能力あるわけじゃないんだから、いっそのこと日本へ行って日本人が欲しがりそうなものを研究してくるとかアクション起こしなさいよ、部屋にこもってPCみてても仕事は来ないのよ!」
 
と反論の余地が無い叱咤激励の言葉を僕に浴びせかけた。いつも思うが、うちの家内は怒るとかなり怖いが、解決策や打開策を怒鳴るので、それはそれで良き軍師ではある。
 
 
それから一週間後、なぜか僕は東京ビッグサイトにいた。