通勤時間往復6時間、給料2,000元はさすがに厳しいと感じた僕は、張さんにこの現状を正直に話してアルバイトを始めることの承諾を得た。当初は難色を示した張さんだったが、給料上げろと言われるよりは良いと思ったのか最後は一応僕のアルバイトを認めた。
といっても別に日本語教師とまったく違う仕事をしたわけではなく、アルバイトも日本語学校の仕事の延長線上にあるものだった。それは日本にある日本語学校に連絡して、中国の日本語学校で勉強している日本へ留学したいと考えている学生を紹介するというものだった。
当時、日本へ留学を希望する中国人が急激に増えていたが、それを効率良く仲介する組織や機関、サービスが今ほど充実していなかったので、中国側では受け皿になる日本の日本語学校がうまく見つけられず、日本の日本語学校は中国人学生をうまく見つけられないということが起こっていた。
このギャップをうまくうめる仲介業をやれば、仲介料をかせぐことができると考えた僕は、さっそく張さんの日本語学校設立を支援した教育企業グループの偉い人に頼んで、彼らの運営する正規ライセンスを持つ留学仲介サービス会社の社員として、留学斡旋のアルバイトを始めた。その教育企業グループでも、留学仲介は利幅の大きいビジネスとしてサービスを拡大したいと考えていたらしく、僕の中国の就業ビザもその企業から出ていたので、渡りに船だったようだ。
とはいえ、日本語教師同様にまったく経験のない僕がいきなりがんがん留学生を仲介できるわけもないので、さしあたっては日本にある日本語学校の住所と連絡先、更に中国の日本語学校や教育機関の連絡先を片っ端から調べると同時に、日本留学の現状を勉強することにした。
それでわかったことは、中国で日本留学の学生の供給源となっている主な地域が中国の東北地域で、上海や華東地区はどちからというと欧米留学希望者が多いこと、僕の考えた留学仲介サービスの会社や組織、機構は正規、非正規含めたものすごい数あること、留学を希望する学生はそうしたサービス窓口を利用するので、いきなり個人の仲介者に任せたりしないこと等だった。
勢いで始めたこの留学仲介のアルバイトは、僕が”もうかるかも妄想熱病症(後に慢性になる僕の持病)”に冒されていたこともあり、日中間の留学仲介のミスマッチというのはどうやら気のせいだったらしいと気づくのに約半年を要した。張さんの許可得て学校の電話を使って連絡した日本語学校は日中合わせて覚えているだけでも一日平均30校くらいはあったと思う。
親切に僕の下手くそな中国語を聞いてくれる中国の日本語学校や、日本に来てもらってぜひ話を聞きたいと言ってくれた日本の日本語学校もいくつかあったが、結局留学生を送り込むまで話しが進んだものは一件もなく、そうこうしているうちに授業への取り組みが以前よりまじめじゃないという理由で、張さんから給料を2,000元から1,500元に引き下げるという宣告を受けたとき、僕はようやく決心した。
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