そうこうしているうちに僕の留学生活もあっという間に終わりに近づいた。
留学が終了した後の選択は三つあった、1,日本へ帰って仕事を探す、2,中国に残って中国で仕事を探す、3,もう少し中国語を勉強するという三つだ。
日本へ帰って仕事を探すといってもそのころ日本はますます景気が悪くなっていて文学部上がりの多少中国語ができる人間など雇ってくれるところは無かったし、もう少し中国語を勉強するにしても留学資金は底をついていたので、結果としては2番目の選択しか残っていなかった。
こうして僕は上海に残って仕事を探すことになったのだけれども、ほとんど社会人経験や日本企業での仕事の経験が無い僕が上海で仕事を探すというのはいくら中国語を解する日本人が貴重だった当時であっても容易なことではなかったし、内気でかつ自堕落なうえどこか甘えたところもあり、必死になって仕事を探していなかったあのころは、思えばかなり愚かだった。
とはいえお金は日に日に減っていく、何とか仕事を見つけないと冗談抜きに餓死だとさすがに焦り始めたその頃にやっと仕事が見つかった。ちなみに仕事が見つかって働き始めた第一日目の時点での所持金は日本円にして6800円だった。
やっとのことで見つかった仕事は安易と言えば安易なのだが日本語学校の先生だった。中国人に日本語を教えるという仕事だ。その当時も已に上海にはたくさんの日本語学校があって、下は半年で300元で、教室に生徒が60人の大講義といったものから、マンツーマンで一時間300元という高級なものまで様々だった。
僕が就職したのは、その中でも比較的授業料が高い日本語学校で、やってくる生徒さんも、お金持ちのお子さん、日本企業の中国人社員(会社が費用負担している)、ご主人が日本人という中国人の奥様等、比較的裕福な生徒さんが多かったように思う。
その中でなんと言っても一大勢力を誇っていたのは、夜のお仕事をしているお姉さんたちだった。日本語ができるとそういう日本人向けのお店で働くことができるので、収入が増えるという直接的なモチベーションもあるせいか、とても意欲的な生徒さんが多かったし何より普段日本人との接触があるせいか飲み込みも非常に早く、驚くほど短期間の間に皆日本語が上手になっていった。
そういう出来のよい夜のお姉さんたちに日本語を教えるのは楽しくはあったけれども、唯一困ったのは出勤前に準備万端で来るせいか、衣装がものすごかったのと、香水のにおいがとんでもなかったことで、目のやり場には困るし、家に戻るとスーツが嗅いだことのない香りを放っていたことだ。
そういう多少困ったことはあったものの、基本的には中国の人に日本語を教えるという仕事はやりがいもあれば、勉強にもなったし、逆に僕の中国語もこれで急速に上達することになった。何より先生である以上大勢の生徒さんの前で話をしなければならないので、このたくさんの人の前で中国語で説明をするという体験は、後に起業した際に非常に役に立つ経験になったと今でも思う。
とにもかくにも僕の中国仕事生活は始まった。最初は日本人なら日本語くらい簡単に教えられるだろうと思っていたが、働き始めてそれが甘い考えだと気づくのに大した時間はかからなかった。
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